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続編:
[些細な出来事なのダ]


1.  はじめに
2.  入院までの道のり
3.  HI病院 の住み心地
4.  入院その後、そして。。
5.  告知
6.  寛解導入療法
7.  お見舞いアリガトウ
8.  地固め療法
9.  福岡西方沖地震
10.  ダブル入院!?
11.  クリーンルームの住民
12.  再び「無菌室」へ
13.  退院へ
14.  一般病室のこと
15.  入院中に買ったモノ
16.  退院!!
17.  自宅療養
18.  復職後
19.  2006年の出来事
[1][2][3][4]
20.  2007年の出来事
[1][2][3][4]
21.  2008年の出来事
[1][2][3][4]
22.  2009年の出来事
[1][2][3][4]
23.  2010年の出来事
[1][2]
24.  あとがき

[些細な出来事なのダ]
に続く...


[ 番外編 ]
-  私も入院したのダ -
by YUKO

1.  入院
2.  眠れぬ病室の夜
3.  治療前の事
4.  闘病仲間
5.  その後
6.  洗濯 & HS温泉
7.  退院までのこと



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5. 告知

引き続き「2004年12月25日」の出来事である。

◎ 無菌室

案内された病室は、何と「無菌室」。今までの大部屋との違いに驚く。
無菌室に入らなければならないほど、私の病状は悪化しているのだろうか?

この無菌室は個室となっており、一方の壁(ベットの頭部側)から大量にクリーンな空気が放出されるようになっている。放出音はかなりウルサイ。この壁の反対側が出入り口で開放されている。つまりドアなどは無く、電動カーテンで見えなくすることができるだけである。
もっとも開放されていても、無菌室の患者は外に出てはいけない。。。 なお HS病院の無菌室は横に三部屋並んでおり、私の入ったのは真ん中の部屋である。

見舞い客は無菌室の中に入ることはできない。壁の一つが全面ガラス張りになっていて、その外側から室内を見ることができるだけだ。動物園のケモノのような感じである。
会話は「留置場にあるようなガラスに開けられた小さなたくさんの穴」に向かって大声を出すか、直通電話(受話器の付いたインターホン)で話すしかない。しかし身体がきついので大声を出すのは無理である。そのうえ受話器が重いので、直通電話で長時間話すこともできない。
そこで YUKO は、スケッチブックに大きな字で連絡事項を書き、ガラスの外側から見せることにしたらしい。私がなるべく身体を動かさないで済むための配慮である。感謝。
なお当然「付き添い」の人も入れないため、着替え等は「"付き添い"が看護婦さんに渡す」→「看護婦さんが患者に渡す」という二度手間となる。

トイレ、シャワーなど生活に必要なものは最小限完備されている。もっともそのままでは外からマル見えなので、その時は電動カーテンなどで部屋を一時的に隠せる。なおシャワーの方はオマケ程度。これで全身を洗おうものなら、部屋中がびしょ濡れだ。結局、頭を洗うのに1回使っただけ!!

ちなみにテレビの視聴はタダ。HI病院では「テレビカード」なるプリペードカードを購入する必要があるので、コレは良い。もっとも身体の調子が悪いので、あまり見れなかったが。。。


◎ 検査&処置

主治医は K先生。九州大学病院から来られたようだが、掛け持ちなのかどうかは不明。後に私は先生を名医であると確信するのだが、このときは分からなかった。

さっそく K先生による骨髄穿刺(マルク)。要するに骨髄液を採取するのだ。骨髄液は腰骨から取る方法と胸骨からというのと二種類あるそうだが、私は腰から!!
ということでうつぶせになる。

手順としては、まず局所麻酔をして、穿刺針を骨髄に刺す。そしてその後、骨髄液を吸引するという順序。麻酔の注射は、採血や点滴で針を刺す場合よりかなり痛い!!  しかし穿刺針の方は麻酔が効いていて大したことはなかった。
骨髄液の吸引も少し引っ張られる感じがするものの、痛みはわずか。この吸引は人によっては「悲鳴を上げるほど痛い」そうだ。
私の場合、一番痛かったのは麻酔の注射だった、ということになる。
なおマルクは初めての体験だったにも関わらず、不思議とあまり動揺は無かった。痛そうでイヤだな、と少し思っただけだ。

続いて栄養剤の点滴。腕だか手の甲だか忘れたが、針を刺される。「3日ぐらい同じ針を使う」タイプのようだ。一発で成功!!

その他、採血等も行う。


◎ 告知

身体がきついので、その後は寝たり起きたり。YUKO とガラス越しにしゃべったりするが、長続きしない。

しばらくして再び K先生の登場。そして一言、

「残念ながら "白血病" です」

半分予想してた通りだった。先生も「白血病では無い可能性の方が高いと思ってたのですが。。。」と言ってくれたが。

しかし一筋の光明!!
"急性骨髄性白血病(AML)" は M0〜M7 の8種類の病型があります。○○さん(私の姓)の白血病は、その中の「M3」、すなわち別名
    急性前骨髄性白血病(APL)
と思われます(注: APL の方は "前" が付いている)。
M3 は現在8種類の中でも完治率は高いです」

そして「M3 は初発の場合、骨髄移植の必要性はほとんどありません」とのこと。初発とは再発に対する言葉で、その病気に初めて発症することをいう。


※ 急性前骨髄性白血病("APL" もしくは "AML M3") とは

白血病は骨髄内の造血細胞がガン化する病気だ。造血細胞は何回か形を変え、最終的に血液中の血球となる。しかし "何回か形を変える" 段階の途中でガン化すると、それ以後、正常な血液が造れなくなる。そのため「血液のガン」と呼ばれる。
またこの「途中でガン化した造血細胞」を「白血病細胞」という。

APL は造血細胞が「前骨髄球」という段階に変化した時点でガン化したものである。原因は不明。。。

日本では APL は年間 500〜700人ぐらいしか発生していないらしい。私が発症したのはすごい確率ということだ。
なお芸能人では、アンディ・フグ、市川團十郎 がこのタイプとのこと。芸能界での発症確率は何となく高そうである。それにしてもお二人のうち現在おられる方は。。  と考えると、いくら完治率の高いタイプと聞かされても。。。

この M3 は他のタイプと比べ、激烈な「播種性血管内凝固(DIC)」、要するに大量出血を伴うことが多い。そのため、脳や内臓内の出血による早期の死亡リスクが高いのだ。アンディ・フグはこの DIC によって亡くなったらしい。
つまり今後 1〜2ヶ月の間に DIC にならなければ、何とか成りそうだということだ。

ところで、前に「"正月前に転院できたことは幸運だった"と思うこともなかった」と書いた。しかし実際は、
「AML は進行が早い」「遅ければ DIC になる確率も増える」ので、早期治療が出来るかどうかが、生死を分けるのである。
しかし今更ながら、M歯科医院の M先生は命の恩人である。先生が HI病院の主治医と掛け合ってくれなかったら、と思うとゾッとする。。。
本当は、正月前に転院できたことは非常に幸運だったのである。。。。。。

ちなみに歯ぐきの出血が止まらなかったのは、血液の凝固を担当する「血小板」が少なくなっていたからだ。白血病は白血球だけではなく、赤血球や血小板も少なくなる。ちなみに赤血球は身体中に酸素を運ぶ役目。
また白血病はそのまま放っておくと、白血病細胞(正常な白血球と区別が付きづらい)が爆発的に血管内に放出される。これによって白血球が異常に増えたように見えるらしい。幸いなことに私は大量放出の前に入院&治療をすることができた。

また風邪のようなだるさ、発熱は、白血球の減少による感染症と思われる。白血球は「細菌の退治」等を担当。


◎ 再度、点滴

急性前骨髄性白血病(APL)の治療開始。
ちなみに現時点での白血球数は 600 個/μl だそうだ。どんどん下がってきている!!

点滴のやり方も変わった。先程刺した点滴針が抜かれる。刺したばかりなのに。。。
今度刺されるのは、「中心静脈カテーテル」というモノだ。心臓近くの太い静脈にカテーテルという「細い管」を挿入し、そこに点滴液を流し込む。この方法だと高カロリーの濃い栄養剤を点滴できるのだそうだ。これを「中心静脈栄養法(IVH)」という。ちなみに腕の血管に高カロリー点滴をすると、血管が壊れてしまうとのこと。

カテーテルを刺すのは、マルクを行うのと同じぐらい大変だ。ということで、これも K先生によって行われた。刺す部位は鎖骨の上付近である。
最初に局所麻酔を打つ。その後、カテーテルを刺し、次にこのカテーテルが抜けないように糸で止めるという手順である。ちなみにやはり麻酔の注射が一番痛かった。
その後、「移動式のレントゲン装置」が無菌室までやってきた。胸のレントゲンを撮る。
このレントゲンの意味は、「カテーテルが静脈に正しく刺さっているか」「肺まで突き刺して、穴が開く(気胸という)が起こっていないか」を調べるためである。

結局、この最初のカテーテルは約2ヶ月間、刺さりっぱなしであった。刺さりっぱなしということは当然、刺した箇所からの感染リスクも増す。
しかし結構リスクがあるにしても、私はカテーテルの方が良かった。毎回、腕などに刺されて失敗されるのはゴメンだ!!


◎ 告知後に思ったこと

まったく動揺が無かったというとウソになる。しかし自分でも驚くほど「白血病の告知」を淡々と聞いていた。
泣いたり自暴自棄になったりと、感情むき出しになる人も多いらしい。なぜ冷静でいられたのか? 後になって考えてみた。

思考停止してた? 違うと思う。「何も考えず、ただ成されるままに治療を受けた」というわけではない。逆に積極的に情報を得ようとしていた。もっとも情報取得担当は主として YUKO だったが(ほとんどネットで得ていたようだ)。

楽観的だから? それもあるかもしれない。しかし死ぬかもしれないという時に、それを貫けれるものだろうか。。。

いろいろ考えてみたが、自分なりの結論はこうである。
「死の恐怖をほとんど感じなかったから」

といっても、死にたいと思っていたわけでも、「死の恐怖」を感じない鈍感な人間というわけでも無いはずだ。絶叫マシンは怖くて乗れないし、高い吊橋の上に立つとビビる。
積極的に情報を得ようとしていたことから分かるように、「生への執着」もある方だと思う。

どうして「死の恐怖」を感じなかった?  それは怖くなかったからだとしか言えない。「告知」の際に言われた言葉だけでは、どうも「死」と結びつかなかったのだ。自分のことなのに。。。
YUKO からよく感受性が鈍いと言われる。そうかもしれない。自分に対してでさえ、こうなのだから。でも今回はそれが役に立ったでしょ!!!

K先生は良く「○○さん(私の姓)は、淡々と治療を受けてくださる」と言っていたが、後になって「それを逆に心配していた」とも言っていた。「こういう状況でなぜ冷静でいられるんだろう? もしかして精神に異常が???」ということだったらしい。

また当時思ったことが、もうひとつ。
「病気と闘わない」

そう書くと、驚く人がいるかもしれない。助かりたくないのかと。。。
そうではない。「闘い」というと、どうも感情が高揚してしまう。淡々としていられなくなるのだ。どうしても "いらない事" を考えてしまう。
「病気に絶対勝ってやるゼ!!」などと高々に宣言してしまうと、もうダメである。

要するに「病気と闘わないフリをする」ということ。ガンジーの「無抵抗主義」が無抵抗のフリをして「抵抗」していた、というのと似ている???
というわけで、この回想録の題名を「闘病記」としなかった(したくなかった)。

なお告知後、いろいろと情報を集めてはいたが、当初、他の人の「闘病記」だけは読むことができなかった(今は OK である)。いくら感受性が鈍いといっても、やはり感情移入してしまう。つい自分と重ねてしまうかもしれない。そうなれば冷静でいられるわけがない。
リアルタイムで日記を書くことも出来なかった。身体がきつい時に日記を書くと、どうしても感情的になってしまう。"いらない事" を考えてしまうのだ。
これが(日記ではなく)回想録とした理由である。退院後だから書けるのだ!!

とにかく私は
「淡々と、そして積極的に治療を受ける」
ことに決めた!!!

さらに思ったこと。もし通常の治療で助からなければ、最新治療を探す。民間療法なんかやらない!!




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